井上直哉
スピリチュアルを学びたい方へ プロフィール お問合せ
最新記事 by 井上直哉 (全て見る)
- 根本的に嫌な人と縁を切る方法<スピリチュアルな縁とは> - 2024年11月19日
- 覚醒する人の5つの成長段階<目覚めるスピリチュアルな過程> - 2024年11月12日
- 女性を幸せにする男性の3つの特徴<パートナーと理想の幸せを築く方法> - 2024年11月5日
- 魂レベルが高い人の3つの特徴<見た目では分からない違いとは> - 2024年11月1日
- 人生が激変する4つの前兆をスピリチュアルに解説 - 2024年10月24日
こんにちは。
心理とスピリチュアルの専門家 井上直哉(@my_earth_naoya)です。
あなたは「死後の世界」が存在すると思いますか?私は葬儀に出席したり、知人の訃報を聞くと、いつも人生や死について、思いを巡らせます。
今回のブログは、そんな体験の中でも、特に印象深かった出来事です。
この話は、私も個人的にとても驚いたことです。ですから、ぜひあなたにも、知っておいて欲しいと思います。
この記事を読めば、なぜ彼らが自ら死を選択したのか、理解できるようになると思います。そして同時に、色々な気持ちが湧いてくるかもしれません。
ですから、この記事の内容については、ご自分の受け取れる範囲内で、受け取っておいてください。
<目 次>
私のもとに届いた一本の訃報
話は、もう十数年前に遡ります。ある朝、私のもとに一本の訃報の連絡が入りました。
死後の存在の様子を伺うこと
それは、遠い親戚の女の子が亡くなった報せでした。
彼女は、まだ二十歳を過ぎてまもないぐらい、私の妻の遠い親戚で、私もほとんど面識がありません。
ですが、人のオーラが見れる私にとっては、彼女のことをよく知っている人さえいれば、間接的に彼女の状態を確認できます。
私は義理の母のオーラを通して、彼女が今どうしているのか確認してみました。
死後の世界の彼女の様子は
すると彼女は、暗闇の中でとても混乱して、狼狽していたのです。
自分に何が起きたのか全く理解できず、ただただ混乱とショックで、慌てふためいていました。
そして「こんなはずじゃない。」と思い続けていたのです。
私は、はじめて彼女の様子を見た時、その混乱している姿にとても驚きました。
彼女の混乱の理由とは
突然の事故や病気で、死を迎えた人でも、それほど混乱していることは、ほとんどありません。
ですが、彼女の混乱ぶりは、普通ではありませんでした。
そしてその日の晩に、義理の母から、彼女が自ら命を断ったことを伝えられたのです。その時、私はすべてを悟りました。
彼女の混乱とつぶやきは、死んでしまったはずの自分が、まだ存在していることへの混乱だったのです。
葬儀やお経によって悟ること
死を受け入れる過程は人それぞれですが、ほとんどの人は、自分の葬儀を見たり、お坊さんのお経を聞いてそれを悟ります。
死を迎えた直後の人たち
死を迎えた人たちの多くは、自らが死んでしまったことを、すぐには受け入れられません。
やっぱり本人もショックなんです。突然の予期せぬ死の場合は、特にそうだといえます。
ですから、事故によって無くなった人は、しばらく家族とともに過ごしながら、死んでしまったという事実と対峙して、唖然としていることが多いです。
でもいろいろな方が、お線香をあげに来くると、自然と死を受け入れ、人生の終わりを悟るようになります。「ああ、自分は死んだんだな」って。
お坊さんのお経は本当にありがたい
そしてお坊さんのお経を聞くことで、死への悟りが進み、人生への執着が軽くなり、気持ちの整理がつきます。
「ああ、自分の人生は本当に終わた。」って。お坊さんでない私が言うのもなんですが、お経はとても効果的なのです。
私はお経を聞くことで、気持ちを整理した霊を、何人も見てきました。お経を聞くことで、悟って霊的に明るく軽くなるのです。
すると彼らの波動が、感謝と喜びの波動へとシフトしていきます。人生をやり遂げたことへの充実感と、周囲の人たちへの感謝の思いで満たされるのです。
私はお経のイロハは解りませんが、素直にお経ってありがたいんだなと思ったりします。
私たちがお経を聞いても、チンプンカンプンですが、霊的存在に対しては、直接悟りへと働きかける効果があるのです。
それぞれの死後の世界への旅立ち
ほとんどの方は、葬儀を通じて自らの死を悟り、感謝と喜びの気持ちで、死後の世界へと旅立っていきます。
もちろん、中にはすごい人もいたりします。
村の名士の院長先生の葬儀
私の妻は、以前は村営の大きな総合病院に、事務職で勤めていました。
その病院の院長先生は、その病院を作り上げた村の名士で、とても穏やかで高齢の先生です。
フクロウの置物が大好きで、院長室はフクロウだらけ、そんな先生が亡くなった時のことです。
妻が告別式に参列するので、葬儀場まで車で送った時に、何気なく「院長先生は、今どんな風にあの世で過ごしているかな?」と、確認してみたのです。
大宴会でお祝いされる院長先生の死後の姿
すると多くの参列者が訪れ、皆が別れを惜しんでいる葬儀の最中に、その院長先生は、すでにあの世で大宴会をやっていました。
とても多くのお知り合いが、先生があの世に来るのを、心待ちにしていたのです。
そして、全く執着や思い残すこともなく、もちろんこの世ですべきことは、すべて全うした先生です。あっと言う間に、この世に別れを告げてみんなのところへ。
「大ご苦労さん会」の始まりで、まるで温泉旅館の大宴会場のような場所で、飲めや歌への大さわぎです。
現世では、みんなでしっとりとしめやかに葬儀を執り行い、別れを惜しんでいますが、笑ってしまうくらい、死後の世界では大宴会の真っ最中です。
さすが村の大先生ですね。死後も器の違いをハッキリと見せられました。(笑)
でも、この院長先生のように、人生で思い残すことなく天寿を全うすると、人は自然と悟り、あの世へと旅立っていくのです。
自ら命を絶つ人の共通の過ち
私はこれまで、自ら命を断ってしまった人の、死後の様子を見てきて、彼らに共通する一つの過ちに気付きました。
自ら命を断った人に共通する過ち
それは、死が終わりであり、自分は消滅するのだという考えです。
彼らはみな、死を選択することで、その瞬間に自分という存在が消え去り、無になると考えています。
だからこそ、最終的に自分を救う道(逃げ道)として、死を選択してしまうのです。
ですが実際には、彼らは命を断ったあとも、霊として存在し続けます。そして、その後の結末を見届けることとなるのです。
死後に見届ける自らの葬儀
数日後、彼女の葬儀が執り行われている時間に、私は今一度、彼女がどうしているのか確認してみました。
すると彼女は、自らの葬儀で泣き崩れていました。自分がしてしまったことへの後悔、両親を悲しませてしまったことへの申し訳ない思い。
ただただ、深い自責の念と悲しみに、打ちひしがれていたのです。
そしてその傍らには、彼女を迎えに来た大きな存在が、静に寄り添って見守っていました。
死後の世界についての知識がない
現代社会では、昔に比べ自ら命を断つ人の数が増えています。
昔は親や地域で教えていた
私はその理由の一つとして、ご先祖や仏様など、死後の世界への知識が、足りないのかもしれないと思います。
昔は、子どもたちは普通にお寺や神社で遊び、ことある事に、お坊さんと話す機会が在ったのでしょう。
そして家では、昔話を聞いて天国と地獄が在ることなど、精神的な教育が普通に語られてきました。
ですがいつの間にか、私たち現代人はそのことを忘れ、目を向けなくなってしまったのです。
神社やお寺で遊んでいたことが、神様や仏様など、目に見えない存在を敬う気持ちを育て、死後に行く場所があるという、漠然とした世界観を教えていたのしょう。
死後についての教育不足がある
今思えば、私が子供のころに見ていた、「まんが日本昔話」とかも、そんな昔ながらの考えを学ぶのに、役立っていたように思います。
ですがいつの間にか、そんな死後の世界に対する、教育や知識は伝えられなくなり、目を向けられなくなってしまいました。
その結果、今のように若くして死を選択する人が、増えているのかもしれません。
それが、決して終わりにはならないのに。。。
ただ幸せを祈り手を合わせる
これは必ずしも、死後の世界に旅立った人が、全て同じではありません。ですが、彼女のその後について、少しだけお話ししておきましょう。
死後の世界でけじめを付けること
彼女の葬儀が終わり、数ヶ月が経ったある日、私はその後彼女がどうしているのか、意識を向けて確認してみました。
すると彼女は、現世で行っていた保母としての仕事と全く同じ、幼子(霊的存在)の世話に、死後の世界で必死になって取り組んでいました。
彼女は現世で遣り残したことを、死後の世界で遣り切らなくてはならないのです。
それは彼女自身が自らに与えた、心にけじめを付けるための、大切な取り組みです。
私たちが彼らに出来ること
自ら命を断ってしまった人が、どのような理由でそうしたのか、残された私たちには結局解らないかもしれません。
ですが彼らが、彼らなりに必死に生きて、人生に向き合い、そして旅立っていったことは、間違いないのだと思います。
だからこそ私たちも、自殺したという外的な側面だけに捕らわれず。
彼らが死後の世界で成長し、幸せになってくれることだけを、ただ願い続けて、祈ってあげればいいのではないでしょうか。私はこれまでの体験から、そう感じるのです。
井上のYoutube動画<聴くブログ>
↓ 次のページはこちら! ↓
自ら命を絶った人たち 人生の価値〜ありがとう。そしてさよなら~
私たちが死を迎えたときに、最初に行うのは、すでに死んでいるという事実を、受け入れることなのです。
彼女はそれが出来ずに、霊的存在となったまま、一人で困惑していました。